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2014年、広く多様な裾野づくりへ 〜読後感想:玉木正之さん「スポーツ 体罰 東京オリンピック」〜

あけましておめでとうございます。

年が明けて、ソチパラリンピックまでの時間があとわずかとなりました。
旧年は、東京パラリンピック開催が決まり、個人的には15年以上関わってきた障害者とスポーツも新たな展開を迎えることになりました。わたし一人では根本的なことを何も解決できませんでしたが・・少しずつ、NPOの取材者としての立場を生かして、何か役に立つことができないか?と考えています。

そんな年末年始の読書は、玉木正之さんの「スポーツ 体罰 東京オリンピック」でした。
この本には、スポーツは本来自発性のもので誰からも強要されない「余暇」「気晴らし」「遊び」がもとにあり、民主主義そのものと言えるとあります。性別や障害、人種による差別を否定するスポーツは、まさに市民のものであり、裾野が広く、自然と頂点は高くなると読めました。

2020年の平和の祭典は、パラリンピックがロンドン以上のものになること、ブエノスアイレスで安倍首相が言った「アンダーコントロール」の状態が、その頃には実現されるか否かが、世界最高峰のスポーツの祭典として成功するかどうかの鍵を握っているということ、そうだと思います。

日本政府は、西洋から民主主義とスポーツを取り入れようとしたが、国民に戦争協力をさせるため軍国主義の政策と結びつけ、体育教育とし、現在までも日本の教育や競技にはびこり自らを悩ませ続けている。(これはスポーツ分野に限らないけれど。)
柔道界の体罰事件は、日本スポーツ界を象徴する事態の露呈だった。歴史をひも解けば、柔道は日本の中で芽吹いた最初の市民主体のクラブのスポーツと言えるし、嘉納治五郎の斬新な環境づくりの努力だったのに、武道とスポーツ精神を都合良く神道=天皇崇拝や戦争準備などへの政治利用が行なわれ、戦争へ向かい、体罰を肯定する習慣をもたらしてしまった。いまここではっきり認め、反省しなければ、2020年は厳しいだろうと思う。体罰=暴力=戦争とスポーツは正反対をなすものであるのだから。

またこの本はパラリンピックのことも触れていました。特別これまで他で言われてきたことと相違ないが、「スポーツ庁」に向けて、競技ごとに一つの組織で取り組む考えで、野球なら、プロ、高校、大学、社会人、障害者、女子、リトルリーグ・・などが一つの組織になるということ。また、「文化局」と「スポーツ局」をわけて作り芸術分野もともに力をいれていくべきと考えている。さらりと書かれていて、障害者のスポーツの歴史を詳しくみていくことはしていなかったが、触れ過ぎてもテーマとずれてしまいます。

時代とともに関係しあい変容してきたスポーツと政治。中枢の方針決定により、深く影響をうけた国民、社会。日本では市民文化として正確にスポーツをとらえることができなかった。ただ、それは、日本だけじゃなく、西洋の社会にも言えると思った。戦争を境にしたスポーツなら、日本と同じ敗戦国ドイツのボンにはIPC(国際パラリンピック委員会)の本部が置かれている。イギリスのストークマンデビルで車椅子競技大会が行なわれたように、ドイツでも傷痍軍人のリハビリとしてさまざまなスポーツが行なわれていたと聞いている。ユダヤ人とともに障害者も殺害していたナチス・ドイツ後の政権で、どんな反省と変革ががあり、障害者のスポーツが生まれ、行なわれてきたかを考えてみたいと思った。

いま、日本のスポーツは、障害者のスポーツも含めて体育やリハビリの延長ばかりではなく、教育課程だけでもなく、多くの人がクラブ活動や市民社会の活動の一つとして自由に取り組むものになっています。でも、変わらないのは障害者と非障害者のスポーツが当たり前に別々に行なわれていることです。スタッフも専門で、障害者が競技に取り組もうとすれば、パラリンピック強化指定選手を目指すことになる。世界最高峰のオリンピックに連なるパラリンピックは申し分ない舞台だし、見合う選手がいま日本にもいる。同時にメダルや勝つことだけではないさまざまなスポーツの楽しみを封印してしまったようだ。(そうでないスポーツ活動にも出会ったことがあるので、一概にはいえないけれども)広く多様な裾野がないまま、勝つための高い頂点をめざすもうひとつのエリートスポーツが育った。

スポーツ庁への組織や環境づくりで、障害者のスポーツだけでなく、さまざまな立場で別々に行なわれてきたスポーツや体育教育の統合は、賭けみたいなところがあるかもしれない。それは、暴力や権力の癒着、メディアとのスポンサー関係など、スポーツを支える既存組織の実態を明らかにしすることが必要になってくる。異なる目標や身体能力をもつ選手、スタッフやファンもスポーツで一つになり向き合う機会をもつようになる。日本のスポーツ史上始めての領域に入っていく。だけれども、10年程度でうまくいくだろうか。その賭け=市民社会の夢の実現にむけた努力は、うまく実を結ぶだろうか?保守的な輩に邪魔される危うさに立ち向かう賭けではあるが、この課題は誰の目にも明らかで乗り越えなければならない、しかも賽はすでに投げられてしまったのだ。

スポーツはしてもしなくても良かったり、しない方がいい場合だってある。一方、スポーツは夢や希望の実現、可能性への挑戦ができる。それが、自分だけでなく、周囲の社会によい影響をもたらすことにもつながるなら、ぜひ、よい形に結びたい。しかしその成果をメダル、結果だけに集約し効率化するだけでは、これまでと何も変わらない。プロセスの質が高まる必要がある。
まず全できるかぎり自発性の取り組みが生まれることを、できるかぎり多くの人々が理解する必要がある。そうして生まれた選手が、どんなに練習を積んでも、強力なサポートがあっても、得ることは圧倒的に難しいことを理解しながら、ともに長い時間をかけていく過程すべてが競技環境と思う。そんな時間のすえに、高い山頂に美しいジェラートを見つけるように、その爽やかな輝きは遠くからも確かに見つけることができるような。

効率的にメダルをとるのではなく、いま、ふたたび、スポーツとは市民や社会にとって何なのか?を問うことが、スポーツの価値を見直すことにつながると思います。
また、同じように、障害とはなにか?と問うことの中にも、新しいスポーツの価値をみつけるうえで深く関わってくると思います。

・・と、玉木正之さんの読後感想のついでに、好き勝手いわせていただきました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2014年1月 Paraphoto/佐々木延江
by sasanoel | 2014-01-05 03:37 | スポーツの前後左右