カテゴリ:取材ノート( 34 )
4月9日(土)
Date:2011年4月10日10:22
Subject:取材ノート | 写真
by:sasanoel@8時仙台発さくら交通移動中

4月9日(土)震災後3度目の石巻である。4月7日(木)の大余震から2日目。今回の揺れは、3月11日よりひどかったと言う人もいる。恐怖の心象が生々しいためそのように感じるのだろう。度重なることに、さらに疲れ、それを表情に出すまいとしている。
昨日(4月8日)は仙台から宮城への高速バス(宮城交通)は運行を休止、一部運行を始めたばかりの東北新幹線も、7日の余震の影響で運休、また駅を封鎖してしまった。

仙台からの始発のバスで石巻へ向かうバスで隣りになった、座間の苅田さんは、女川町で生きていた両親に初めて会いに行くのだという。石巻大橋臨時バスターミナルからタクシーに乗って女川へ向かって行った。

南境
7日(木)23時32分、牡鹿半島沖を震源とする震度6強の揺れが起き、石巻市南境でひとり縫製業を営む叔母のたか子はしばらく裁断台の下に隠れていた。ほどなく隣人が来てくれ、津波警報が発令されたので高台に避難した。警報が解除されたのは午前2時ごろ。ひとまず、隣人の家に避難させてもらい、その日は泊めてもらった。翌日も、夜は怖かったので泊めてはもらわなかったが、隣りの家にいた。
専修大学のある南境には、大学を作るときに10mの堤防も作られており、浸水被害はなかったが、さらに高い津波が来たら、と思うと不安だった。
9日の夜訪ねて行くと、その日は、眼圧が高く不調のため仕事を休んでいたという。かかりつけの眼科医は駅前の商店街にあったのだが、病院も、お医者さんも津波でなくなってしまい、被害の少ない蛇田地区の眼科へ行った。

不動町
不動町の叔父も、無事だった2階からまた山のほうの避難所になっている施設に移動して一夜を過ごした。

9日の昼ごろ、叔母とともに叔父のいる自宅2階を訪ねた。行政は二次避難を奨励しているため、二階が無事だった叔父は、自宅に戻って暮らしている。
「ミサワホームと、ヒロシ(従兄)の親友の建築家さんが来てね。ヒロシの親友に頼もうと考えてる。まじめな人は基礎からなおさなくちゃって言う。ただきれいにしようって言う人もいる。でもね、すぐに直すのはやめて、しばらく様子みようと思ってさ」と叔父は言う。言いながらも、「おばあさんの箪笥をすぐ修理せねば」とも。大事な書類を取り出すために、水をかぶって開かなくなっていた大事な箪笥を壊さなくてはならなかった。この作業はヒロシがやった。自分では力がいるからできないが他の人にはさせられない作業だった。それでも、箪笥が壊れたままになっているのが、叔父にはどうにも気になるらしい。
「そんなのね、すぐに直せないっちゃ。どこも被災してるんだから。ガスもね、お父さん、できるだけお金をかけないで直さなくちゃならないんだよ。これからうんとかかるんだから。みんな生きてることが幸せだっちゃ、これから前に向かって行かねば!」と叔母は諭していた。

「どなたかいらっしゃいますかー?」との声に、叔母とともに玄関におりて行くと、大津市からの派遣保険士さんだった。避難所や家を訪問し、被災者の安否確認をしていた。暮らしている人と、その人の体調をきいていた。暮らしている人の名前を書いてほしいと言われ、叔母が叔父と自分の名前を書いて渡そうとするとき、「私は避難所にいます」とつけ加えた。「ええ、いいです。体調とか、お悪くないですか?」との確認があり、どこの避難所か、とは聞かなかった。どのような建物に誰が居住しているかは問題ではないらしい。二次避難のさい、医療・介護のニーズを把握をするなどのことがメインなのだろう。

明友館避難所(不動町)
明友館避難所では、備蓄したものを周辺の避難所や住宅で被災した人に届けているほか、避難所内で生活する人が協力して煮炊きをしていた。たまたま、調理師さんがいることもあって、毎日汁物はついてくる。今夜はある野菜を使って天ぷらを揚げるとか。ほっとする話だ。一方、自宅と避難所を家族と別にする叔父は、避難所へ配給品をとりに行くが、おにぎりとパンに偏っている。買い物に行ったのだが、ちゃんと買えただろうか?

従兄(ヒロシ)の家族は、奥さんと子供3人。入学式は21日になる。
明日から奥さんが出勤ということで、今日は自衛隊のお風呂サービスにお母さんと子供たちは行く。

従姉は、河北新聞に折り込まれてきた住宅の広告を見ていた。そう、避難者たちはこれからのことを考えはじめているし、家に住めなくなって出て行くという単純さは誰にもない。疎開は仕事がなければ良いが、仕事のある世代は仕事を大事にしているから、市外へ出ることはできない。仕事のない高齢者のみの世帯は、もっとも石巻を愛している人々で、地域の宝だ。二次避難という次の課題に向けて、市役所は、明日、11日月曜日から一般受付を開始する。
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by sasanoel | 2011-04-10 10:22 | 取材ノート
安海さんからの電話
Date:2011年4月7日13:05
Subject:取材ノート | 写真
by:sasanoel@お昼休み

2日(土)の訪問で話をきいた人の中に、安らかな海と書く、安海(あんかい)さんがいる。
石巻の元漁師さんだが、現在は漁師をやめて、現在は海運会社に所属している、航海士さんだ。漁船は20年ほど前に辞めたというが、今でも、石巻にはたくさんの仲間がいる。

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by sasanoel | 2011-04-07 01:05 | 取材ノート
無事だった2階
Date:2011年4月4日16:20
Subject:訪問2日目 の報告2 | 写真
by:sasanoel@横浜、移動のあいま

照男叔父さんと笙子叔母さんの家では、叔父が家のそうじをしていた。
ボランティアが何度か来たのと、午前中、従兄の奥さんのご両親がポリタンクに水を持ってきて、泥で白く乾いた床にきれいな水を流し、掃除したそうだ。先週とは見違えるようにきれいだった。しかし、多くの家で、瓦礫やヘドロを掃除しても、水がないため使えるものや床をきれいにすることができない。
水道が必要であるが、石巻の水道はいまだ復旧のめどが立たない。衛生環境に問題があると、日赤医療班も焦っているのが報道されたが、被災地の行政機能もまた、被災している。
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by sasanoel | 2011-04-05 10:35 | 取材ノート
日々変わる石巻
Date:2011年4月4日16:20
Subject:訪問2日目 | 写真
by:sasanoel@仕事の合間

横浜では桜が咲き始めた。
一週間前、ペットフードがないというので準備したが、もうあるというので、急ぎペットシーツに荷物を詰め替える。こちらはドラッグストアにいけばいくらでもあるものが、避難所にはないのだ。
震災から3週間、4月2日(土)。2回目の訪問から1週間がすぎた明友館避難所をまた訪れた。
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1日22本と増便になった仙台ー石巻バスで、朝10時、石巻入りした。
道が渋滞していたため、通常は1時間少しのところ2時間ほどかかった。車は増えたが、ガソリンスタンドにならぶ車の行列は短くなっていた。

石巻大橋を超えると、不動町。避難所へ行く道路から水は引いていて、数人の警察官が手旗信号を送っていた。夕方の上げ潮時は増水するが、もう道路が川のようになったりはしない。
停電、断水は今も続いているが、食料の配給は間に合っており、給水車が頻回していた。

避難所も、街も、ほんの少し、状況に慣れてきたようにみえた。
同時に、この先どうなるかわからない、という不安の影も見えた。
避難所はいつまで使えるのか、住宅のローンはどうなるのか。郵便が届くのはいいが、見ると、請求書ばかりだった。最寄りの銀行もクローズしている。
行政やライフラインの担い手もまた、被災した人々だ。

4月2日の続き
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by sasanoel | 2011-04-04 16:20 | 取材ノート
不動町・明友館
Date:2011年3月28日23:33
Subject:取材ノート
by:sasanoel

牡鹿半島を含む石巻は、28日現在で被害者数2,245 人、行方不明者2,728人、25,063人が避難している。旧北上川河口・河岸にあり、津波は港、河口から逆流して家々を襲ったという。
不動町は石巻の中心にある。旧北上川にかかる石巻大橋を渡ったあたり一帯が不動町だが、川のすぐそばにあるため、上げ潮による増水は今も続いている。写真右手の白い建物が、避難所となっている「明友館」。
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写真は26日4時過ぎ頃。上げ潮になると県道に水が増してくる。宮城の浸水地域の70%はまだ水が引いていないらしい。
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by sasanoel | 2011-03-28 23:33 | 取材ノート
被災から非難まで
経過報告1

<不動町周辺の被害と佐々木家>
佐々木家は、石巻市不動町、旧北上川の河口流域に生活していたため、川に逆流する水で1階はほぼ浸水状態となった。
石巻の避難所明友館は、指定避難所になっていなかったため、避難者が協力して避難所機能を立ち上げた。
現在110名(河北新報26日)が非難生活をしている。
道路はまだ水が引かず、上げ潮による増水もある。
停電状態で、テレビはない。ラジオからの情報はある。
発電機により携帯電話が充電できるため、iPhoneなどでインターネットから情報収集している。


所帯ごとに、
照男・笙子(2階建て)
仁美・ミサ(マンション・1階)
洋・めぐみ・涼多・麻衣・賢大(2階建て・旧北上川沿い)

家族は全員避難所へ非難し、無事だった。


<震災の時>
津波が来たら、「佐々木家は明友館に」ということになっていた。石巻市民開会横の隣にあるが、市民会館は老朽化していたので、立て替えの予定だったから、あらかじめ打ち合わせしていた。
津波警報で、逃げる準備はしていたが、波に飲まれたり、逃げる途中で巻き込まれたり、町内で6人の死亡が確認されている。
波に飲まれて、生き延びた人もいる。

<11日2時45分/それぞれの行動>
照男
照男と叔母の笙子は2丁目の2階建てに二人で暮らしていた。もと石巻郵便局局長。
警報があり、2階に避難していた。水が少し引いて、町内会で面倒を見ることになっていた2人の無事を確認するため、一人、明友館には向かわなかった。その後、数日消息不明。自宅に近い、町内会の災害対策本部を結成し、役員の方々と避難生活をしている。

笙子
照男と別れ、明友館(避難所)へ。
電気も暖房も食料もない部屋で、パイプ椅子に座り、一夜を明かした。

仁美
野蒜にある職場に勤務していた。野蒜から、避難所のある不動町までは、ヒッチハイクで消防隊の車に乗せてもらい、明友館にたどり着いた。

ミサ
不動町のマンションから、コーギー犬のハナを連れて明友館へ。

洋(めぐみ、涼多、麻衣、賢太)
湊小学校避難所に賢太を迎えに行ったまま2日間滞在。そこで班長を任されそうになったが、他に立候補する人がいたので、賢太と明友館に避難。
湊小の校庭や河口1kmのところで、家が流れて行くのを目撃した。
12日午前に明友館で合流。
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by sasanoel | 2011-03-28 06:46 | 取材ノート
仙台に戻って、朝のバスを待つ
仙台駅。石巻発17時半のバスに乗り込み、戻ってきた。

東京への出発便は東口「さくら交通臨時バスターミナル」から明日の朝8時45分だが、朝一番のバスではこれに間に合わないため、仙台で幸い商店街のネットカフェ「ポパイ」が営業していたので夜を明かすことにする。

新幹線も、在来線も運休で改札は閉鎖されているが、仙台の地下鉄南北線は,富沢駅〜台原駅間を運行していた。荷物を置いて、動いている地下鉄に乗ってみた。

昨日から今日のこと、報告をしようと思う。ちょっとアタマを整理して。
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by sasanoel | 2011-03-26 19:10 | 取材ノート
仙台ー石巻
15時過ぎに仙台駅東口に到着。臨時発着所で、被災地から東京へ行くバスに、席が空いていればいつでも乗れる。この他にも、東京や山形、栃木など、バスはヨドバシカメラのあるバスロータリーのところから発着している。

1日4本あるという石巻行きの高速バスは駅の反対側、西口の「さくら野・33番」というところから発車すると河北新報にあったので、仙台駅の西口へ回る。
自由通路を東から西へ抜けようとすると、上からホームの見える窓の外に、列車が待機する姿がみえた。駅には人の気配があるが、しばらくは客をのせて動くことはないだろう。改札口は閉鎖されていた。
駅の建物の半分はシートに覆われていて、ここそこで作業員たちが仕事をしていた。

西口・「仙台駅前」(青葉通りさくら野前33番乗り場)に16時ごろ到着。
15時50分のつぎが最終で、17時30分発。おりるところは、「大橋臨時発着場」(石巻消防署隣接地)しかない。
これに乗っていく。

つづき
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by sasanoel | 2011-03-26 01:23 | 取材ノート
ご迷惑をかけに行きます。
ボランティアの規制が行なわれる昨今である。
つまり、被災者のもとで何もできることはなく、訪問者はかえって迷惑をかけてしまいかねないということだ。
そんなわけで、いろいろ悩んだが、友人の助けもありバスがとれてしまった。
介護福祉士の授業・・今日は「ターミナルケア」だったかな、を休んで、横浜を出発。東京から仙台、仙台へ向かう高速バスに乗り込んだ。仙台で乗り換えて、石巻へ向かう。
出発のとき、母が見送ってくれたせいもあるが、取材で何度も海外へも出かけ、見知らぬところですごした経験もあるのに、正直、どこへ行くより緊張した。

親戚たちは、ふだんあまり顔を見せないわたしが行くなんていうと、100%気を使うにきまってる。こんな時に、来なくてもいいのに、と、思ってくれていることだろう。

被災地の叔父は家族と離れた避難所で生活しているようで、父は毎日電話をかけている。まあこれも迷惑かもしれない。男は三人兄弟の次男の父のことだから、いままで何かとつっぱってきたことだろう。心配できることが生き甲斐いたくなっているのかもしれない。父にせよ、娘にせよ、迷惑な親子である。

三男の叔父も神奈川で床屋をやっている。話していないが、同じように心配だろう。
なんか、心配合戦になっているのもうすうす感じるが・・・被災地はそれどころじゃないかもしれない。

泊まるところ、食べ物、飲み物、寝具などは持参していくし、家が無事だった南境のたか子さんのところに泊めてもらえるから、迷惑かけないとは言えないけど、何も心配はいりません。薬と、たばことカイロを少し持って行きます。とりあえず、様子を観に行きます。

今日は南境に泊まり、明日の朝、不動町へ行きますね。

それでは、また。
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by sasanoel | 2011-03-25 10:21 | 取材ノート
震災の現場は安全最優先で
この古い友人は、いつもわたしに大事な言葉をくれる。
「本当に自分のためにすることは、人のためにすること」
15歳の私が聞いた言葉とまったく同じことを今も言っていると思う。誤解されそうな言葉だが、誰もがこのことを、よく考えていけたらいいと思う。



朝日新聞2011年3月23日神奈川13版 12ページ
オピニオン・声

震災の現場は安全最優先で

大学教員 長瀬 修
(横浜市港南区 52)

「安全が確保されない限り、仕事はしないから。安心して待ってろ」。19日に福島第一原発での危険な放水活動をした東京消防庁総括隊長の富岡豊彦さんが、ご家族に寄せた言葉に心を打たれた。

大災害が引き起した事態は、ともすると、支援する方に「命がけで」という気持ちをさらに持たせるかもしれない。職務に命をかけてという気持ちは尊い。しかしそれが現実の命がけの行動とならないよう、ブレーキをかけることが緊急事態でこそ重要だ。

昨年亡くなった父は特攻隊の志願兵だったが、幸いにも生き残った。第2次世界大戦から学ぶべき教訓の一つは、二度と「特攻隊」を生み出してはならないということ。越えてはならない一線がある。

震災現場で活動して下さっている多くの方に心から敬意を表したい。プロは自らの安全を確保して活動することでみんなのお手本となってほしい。ギリギリの場面でも限界を見極め、自分のため、家族のため、そして社会ののために、必ず無事で帰るという心構えをお願いしたい。そして私たち社会は、「命がけ」の場面を生み出さないことに全力を注がなければならない。
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by sasanoel | 2011-03-25 07:28 | 取材ノート


被災者も非被災者もともに平和で楽しく暮らせる社会をめざして。2011.03.11 ご連絡、記事についてのお問い合わせ、取材依頼は筆者までメールで。sasanoel@gmail.com
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