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「デモと広場の自由」に関する共同声明、柄谷行人さんら

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反・脱原発、東日本大震災を機会に、日本に「デモ」が戻ってきた。
雨宮処凛さんはじめ、脱原発をとなえる若者たちが「素人の乱」を起こした。柄谷行人さんは、311以降、デモを起こす若者たちの姿、あたらしいデモの形を好ましく思い、希望を感じていた。
9月11日のデモで、12名の参加者が逮捕者が出たさい、雨宮さんらと知り合い、表現の自由を抑圧する行為への警鐘を鳴らす共同声明を行うことにし、この日にいたった。
このときのデモは、YouTubeに載っている。

共同声明の記者会見は、9月29日「デモと広場の自由」として、有楽町の海外のジャーナリストが集まる、日本外国特派員協会で行われた。
記者クラブで調整ずみの情報しか報じない日本のマスメディアにではなく、海外メディア、独自に視野をもつ記者が参加する場を選んだのは、原発報道その他において再認識された、日本の蝕まれた報道の現状をみれば、当然という感じだった。

柄谷さんのほか、鵜飼哲さん、小熊英二さんが起草者として名を連ね、雨宮処凛さんが、デモを企画した若者の代表として参加していた。

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柄谷さんは、反原発という以前に、日本には「デモ」が必要だという。デモとは市民の表現の場である。その本来自由な場が、政府や警察などの権力の前に沈静化し、労働組合、社会党が弱体化し、デモもしだいに姿を消していった経緯があるという。原発事故をきっかけに復活した。

「311の地震のあと、海外メディアは日本人の冷静な振る舞いを賞賛してくれたけれども、それは、不可解であったとも思う。なぜ怒らないのか。原発事故後の社会状況の中で、デモは、集会で声を発する市民のごく自然な姿である。
日本人は広島・長崎の経験から、核を憎んでいた。昔から日本にデモがなかったということではない。1980年代前半には、デモが盛んで、核の問題に関しては敏感だった。日本には54基もの原発がある。それらは原発に反対する意思表示、デモができにくくなってきた証拠である。デモが、市民の基本的な権利であるということが日本に定着しているとは思えない。
私は、単に原発に反対するだけではなく、個々人がデモを通じて自己表現することが大事だと思っています。311の後、『素人の乱』のような若い人たちが、あたらしいデモの形を作り出した。日本でデモが始まったということに、感謝し希望を見いだしています。
記者のみなさんにお願いがあります。現在、日本の各地に反原発のデモがあるという事実を、もっと報道してください。デモという表現の場が抑圧されることのないように」と柄谷さんは言う。

この会場には、大手メディアからも記者がきていた。毎日新聞、朝日新聞は代表質問にも立った。個々の記者はいつもそうだ。少数意見のところにも取材に来ている。ここに来た大手新聞社の記者たちは、自分たちへの非難を含むこの問題をどのような記事にするのだろう。記事にするのだろうか。

私も、9月19日のデモにはじめて参加した。
それまで、わたしは、デモが集団行動をあおっているばかりで、より人が問題を考えなくなる元凶とも思えてきたので、あまり好きではなかった。集団で、人ごみのイメージもよくなかった。でも、この日は子連れの家族や障害者がパレードに参加し、楽しいものだった。逮捕者もなく、自分の中のデモのイメージがガラリとかわった。
しかし、その前、9月11日のデモの事件が、大きく左右していたようだ。

表現の 場が抑圧されることには、やはりいけないと思うし、原発が54基つくられてきたことには、原発建設反対デモが鎮圧されてきた失望の歴史があるということを今回、理解できた。
人々が表現する楽しみ、希望を経済効率に奪われていったということが、その構造をしらない私たちの世代にも影響を与えていると感じる。
前向きにものを作ろうとするなかで、正体のわからない文脈を感じた作り手は多くいたと思う。

廃炉をもとめる人々には、いま、大きな機会が訪れている。
原発だけでなく、メディアのあり方、国家権力のあり方など、戦後のさまざまな問題に目を向ける機会ともいえそうだ。
とくに原発問題と向き合い、投げかける人を中心に、多くの人が、ひとりの市民として問題を考えることができたらいい。それは、一人一人が線量計を持つようなことだろうか。

問題は、デモで意見を発しても、その声をうけとめ、問題認識、解決する方法がみあたらないことではないだろうか。
デモを市民の要請として受け止めて投票したり、会議にかけたりという仕組みはない。
メディアももみ消すような社会では、暗い気持ちになるのはあたりまえだと思う。

そういう難しい問題を、市民が考えはじめたら、政府はめんどうかもしれない。でも、同世代の日本人なら、ふつうの暮らしの中で、どうしても感じてきた閉塞感があると思う。
誰も答えを出すことのできないでいる問題を、警察も、我関せずの人々も、関わる社会や未来の問題として、仕事の立場をこえて考えるきっかけにできないのだろうか。これは、誰が責任をとるとかいうこと以前の、問題の認識の段階になると思う。
それをせずに、抑圧したり、無視したりするのは、自分たち自身のことを真剣に考えることを放棄してしまうことなのかもしれない。

「デモと広場のための共同声明」
http://jsfda.wordpress.com/statement/

記者会見の動画(ユーストリーム)
http://www.ustream.tv/recorded/17570244

「デモと広場の自由」に関しての柄谷さんの考え
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-64.html
by sasanoel | 2011-09-30 00:35 | 記者会見から